プーレ氏に聞く

 今回出演していただくヴァイオリニストのジェラール・プーレ氏(当協会名誉会員)の父、ヴァイオリニスト・指揮者のガストン・プーレ氏(Gaston Poulet, 1892-1974)は、ドビュッシーがヴァイオリン・ソナタを作るときに助言し、1917年5月5日にサル・ガヴォーで作曲家とともにその初演をしたことで知られています。2012年3月19日、昭和音楽大学のオーケストラのリハーサルの合間にお邪魔して、特別インタヴューを行いました。(きき手・翻訳:松橋麻利  同席者:川島余里、井上二葉  撮影・編集:末永理恵子)

 

ーーお父様はどういうことを教えてくださいましたか?

 多くのことです。フランス音楽のスタイルや精神ですね。私はそれをとてもたくさん勉強しました。父は、ラヴェルの音楽をとてもよく知っていました。ラヴェルの音楽を大変好きだったのです。人間関係のことを言っているのではありません。ラヴェルその人のこととはちがいます。でも彼の音楽を父は大好きでした。ですから、ラヴェルとドビュッシーとフォーレという3人の作曲家を父は生涯守ったのです。私はフランスの精神をたくさん学びました。

ーー 特にフランスの精神なのですね。

 その通りです。

ーー フランスの精神って何ですか?

 説明することができません。それがなんだか分かりません。ドイツ音楽でないものです。

ーーメンタリティ(精神状態・気質)ですか?

 そう、フランス人気質です。ある種の心情的な流儀です。表現法であり、心情的なものです。同時にそれはフォーレの音楽にもある、社会のある階層の音楽にあるものです。それは社会なのです、何と言えばいいのでしょう、サロンです。音楽を知っていて、音楽をしたり、夕食をするために集まる人々のことです。そこでたくさんのことが話し合われます。いろいろな人々がやってきます。音楽家だけではありません。画家、詩人、政治家、医者もいます。あらゆる階層、当時の偉大な科学者もいればその家族もいる、そうした家族の間で音楽をしたからです。それがフランス社会ということだった。みんなそうしたことが好きだったのです。夜には出かけ、お互いに招待しあう。テレビなんてなかったのですから。ですから話すこと、何かを語り合うのが楽しみだったのですね。夜街へ出かけて行っては集う。とても多くの私的なコンサートがありました。ですから、そういう場所、こうした家庭に招待されて、作曲家たちは演奏することになり、互いに知り合うようになっていったのです。
 ある音楽は魅力的で、楽しいものでしたし、そこには快い言葉がありました。私たちフランス人にはそうしたものがあったのです。この種の魅力、言葉はドイツ人にはありません。美しいもの、偉大さ、文化、気高さはありますね。でも私たちはまったくそうではない。

ーー 日本人についてはどうお考えですか?

 ああ、音楽に関することではお答えできます。日本人は、100年で一気に音楽を学んでしまった。それは新しいが、とてつもなく大きく広い文化です。日本人は、少しずつ自分たちの精神や心を豊かにしてくれるものを発見したのです。それは幼年時代とか、根源的なところから来たのではありません。それは一気にやって来たのです。そして今や日本は世界でもっとも音楽的な国に数えられています。その証拠にいたるところで音楽家の交流があります。日本人は信じられないほど立派な楽器を持っています。彼らはどこでも音楽をやるために大変な経済的努力をしました。日本人はついに私たちが愛するものすべてを好きになりました。それは私たちが13~14世紀から愛しているものですが、日本は19世紀に始めたに過ぎない、ということです。
 ですから当然あなたがたの知識、あなたがたが自分の存在や肌や心、そしてあらゆるところに取り入れた知識はかなり新しいものです。あなた方の精神性はそのように出来上がっています。もう120年も経つのですからそれは新しいとはいえないかもしれませんが、でもあなたがたの意識ではきっと新しく、素晴らしいもののはずです。音楽は、世界の文化においてその本質に迫る発見です。それはきっとあなたがたにとって、何かを、日本を表わしているにちがいないのです。私は、日本人の精神性をこのように感じ取っています。

ーー フォーレのソナタについて

 フォーレの筆致はとても自然だと感じます。でもピアニストにとってはほんとうにとても難しいようです。ですからピアニストは演奏を引き受ける前にいつも何度も考えてしまうソナタなのです。ピアニストはドビュッシーやラヴェルのソナタのほうをよく引き受けます。フランクのソナタもそうです。とても難しいのですが、ピアニストにとってそれほど危なくない理由があるのです。ところがフォーレのソナタは手ごわい。それはモーツァルトのピアノ作品と同じです。易しいように見えておそろしく難しい。舞台でモーツァルトを弾くとき、すっかり裸になったような、何も着ていないような感じがしますが、フォーレのソナタはピアニストにとってこのような効果を持っています。彼らは居心地がよくないのです。たくさん演奏し、ふだん舞台練習をよくすればもっとよくなります。でもフォーレのソナタは大仕事なのにあまりもうからないのです。

ーー でもこの曲を勉強するのはほんとうに楽しいです。

 そうですね。それを勉強し、ヴァイオリニストと共有するのは楽しいです。この曲はヴァイオリンにとってそれほどに自然で美しい手法です。ピアノの和音が、ヴァイオリンを豊かにしてくれます。これは、見事によく分かち合えるソナタです。ほんとうに、ラシラミラシドミソ(歌う)、難しさなんて感じないにちがいない。歌えると思う。だから歌って!でも歌われない。そう、さいわいヴァイオリンには演奏が難しい8分音符がない。ミファレシミミファソ~とやる。はるかに易しい。
 私はフォーレのソナタは勉強しなくてもとてもよく弾けます。若いときはたくさん勉強しました。今は指の中に、私の中にそれをつかんでいます。問題がない。フランクのソナタも同じです。私はフランクのソナタを勉強したことがありません。ドビュッシーのソナタはいつも勉強します。ヴァイオリンが難しく、難しさが戻ってきてしまうからです。一方ベートーヴェンのソナタもいつも勉強しています。ずっと勉強するでしょう。スタイルの問題ではありません。

ーーそれは何ですか?

分かりません。

ーー 情熱ですか?

 いいえ、感情的なものではないです。それは身体の側面です。人が何かを吸収すると、それはその人の中に入ってきます。フォーレのソナタは、完全に私の指、手、身体に入っています。それで夜でも昼でもどんなときであろうと、それを演奏するようにいわれればできるのです。ベートーヴェンのソナタはそうはいきません。勉強しないでもこのように演奏できる作曲家とできない作曲家がいます。ドイツ音楽については、勉強しないで演奏できるというわけにはいきません。フランス音楽はとてもよく弾けます。例えば3年間忘れたままにしても、2日後には、それが私から離れていなかったかのごとく戻ってくるのです。
 フォーレやフランクのソナタでレッスンをしたことがありますが、難しいとは思いませんでした。歌わなければならない、それだけなのです。表現するものはなにもありません。こう歌うんですか?ちがいますよ、そうではなく、こう歌うんですよ。簡単です。でもそのあとで私にとっては簡単だけれど皆さんにとっては簡単ではないということになります。

ーー 分かります。

 でもなぜそれが難しいと思う人がいるのか、これでいいのか、まちがっているのか、どの方向へ行けばいいのかを知りたいと思っている人がいるのももっとよく分かります。でも私にとって行くべき方向は明らかで、それが私の本質なのです。

ーー その違いは、つまりは天才だということですね?

 いいえ、いいえ、そうではありません。天才なんて私にとっては存在しません。まったくいないのです。天才は別ものです。それは感覚、精神状態です。逆方向に向いていたとしても、自動的に正しいほうへ向き直ってしまう。見失ったかと思っても、私は自動的にフランス音楽のほうへ戻ってくるのです。間違えようがないのです。まちがえようがなければ易しいことになります。

ーー でも人はそれを天才というのです。

お好きなように考えてください。

—ー それはおそらく音楽への愛でしょうか。

 そうかもしれません。でもそれだけではない。精神状態なのです。香りです。それを感じます。そうなんです。こういうふうにしなければいけない。フランス音楽を演奏するときはいつもとても感情的です。そうです、だからよく「魅力」とか「幸福」とか「それを共有する」といった言葉を使うのです。それは、魅力的な言葉、気持ちのよい言葉、感受性、呼吸です。フランス音楽をフランス人とさらうとき、自動的に息づきます。ありのままにやります。そのままということです。そうです、分かり合えてしまうのです。こうやって、次にはこうもやる、そしてああやってという具合です。ああ、こうやりましょう、そうそう。どういうこと?何を言っているのかわかりません。でもそうやるし、そうしてきたのです。

ーー 自然なのですね。

 その通りです。